(親に限った話ではありませんが)
親に言われた言葉は呪いとなります。
例えば、
・「黙っていう事を聞け」「余計なことをするな」
⇒自分で考えることを止める
・「お前は運動がダメだなあ」
→自分はスポーツができないと思い込んでしまう
などです。
これらは、子どもの自己肯定感を失わせ、新しいことに挑戦する意欲もなくなり、自立心への妨げにもなります。
親が思わず言ってしまったことで、子どもにその意識を植え付けてしまうことは、大なり小なりあるかと思います。
大抵の親は、親の影響を承知しているので、気をつけています。
自分のせいで子どもに変な意識を植え付けてしまうことを。
実際、職場でも、子どもへの話し方に気を遣っている、悩んでいる、という方が何人かおられました。
しかし、毒親は、そういうことを悪いとは思いません。
本人が悪いと言います。親のせいではない、と思っています。
私も、幼少より様々なことを言われてきて、その言葉が呪いとなってなることを自覚していました。
ただ、それではいけないと子どもながら気づき、改善を試みるのですが、そこでも親が出てきました。
「お前は○○なんだからやっても無駄だ!」
と言われるのです。
自分の悪い部分を変えようとすると、「こうだ!」と決めつけて、やらせないようにしてきました。
本当に今思っても、我が親は、子どもを育てる気があったのか疑問に思います。
自立させない、親がいないと何もできない子ども、にしようとしていたようにすら感じます。
私の経験
私は、親、家族に幼いころから言われていた言葉があります。
”不器用”です。
初めてやることが上手くない、何かに失敗する等、何かにつけて、この言葉を言われてきました。
なので、自分でも
「ああ、自分は不器用なんだ。だから何やっても駄目なんだ」
と幼少より思い込んでいました。
そして、新しいことに挑戦することを躊躇うようになりました。
「自分は不器用だから、やっても無駄だ」
と、幼少の頃より思っていた記憶があります。
何もやらせない
しかし、私が不器用というのは、一応言い訳?といいますか、言い分があります。
兄は、器用でした。
というのも、兄には、親がいろんなことを丁寧に教えて、やらせていたからです。
で、私の場合、まず兄が既にできているから、あえて私に教えることはせず、既にできている兄にやらせていました。
そこで私が
「やりたい」
と言うと、一応やらせてはくれるのですが、やり方の指導はありません。
当然初めてのことなので失敗します。
すると
「お前は下手だなあ。不器用だ。お兄ちゃんみたいにできないのか」
と言われ、本当に呆れたような顔、声で言われたり、笑われたりされていました。
そして、
「お前はやらなくていい」
と言われ、できる兄にやらせる、ということになっていました。
結果、兄は、いろんなことを教わり、経験を積み重ね、器用となり、それと比較され、私は何やらせても駄目、不器用と言われてきました。
「お前は〇歳なのにできないのか。お兄ちゃんは〇歳の時にすでにできていたぞ」
と言われてましたね。
私としては、
「いや、何もやらせてくれなかった。教えてくれなかったじゃん」
と・・・。
改善しようと試みることすら否定
しかし、私は、子どもながらに、自分の不器用をなんとかしたい、と考えていました。
そして、いろんなことを経験するのがいい、と思い至りました。
最初は失敗しても、最終的にできるようになる。そういうことを繰り返していけば、他の事にも応用が利き、それなりにそつなくこなすことができるようになるのでは?と。
また、そうなることで、私の過去・・・不器用さを知らない他人からは、「なんでもできる人」と見える。つまり、なんでもできる人は、いろんなことを経験してきた人だと考えていました。
例えば、小学校で、スキーの課外授業がありましたが、スキーができる子は、それをしたことがあるからできるのです。
私はスキーなど初めてであったため、当然下手で、一つ一つ教えてもらわなければできませんでした。
そういうことを見てから、自分ができないのは経験がなく、できる子は経験し、練習してきたからできるのだと気づき、様々なことに挑戦し、自分のできることを増やそう、経験を積もうと考えました。
そうして、小学校のある時期、いろんなことをやろうとした時があります。
しかし、ここでも家族の「お前は不器用だから」と言うセリフと思い込みが発動します。
何かをやりたいと言うと、「そんなの無理だろ。お前にはできない」と言われ、挑戦することを否定され、笑われていました。
今思うと、このようなことで、私の自己肯定感の低さが培われましたね。
やることなすことダメだと言われ、笑われる。
子どもには、いや子どもでなくてもつらいことです。
幼稚園時代には、既に植え付けられていた
私の場合、幼稚園の記憶があるのですが、年少あたりは、まだ積極的に行動していました。
年長あたりから、前に出ることがなくなり・・・、いや前に出ることが嫌になり、人前に出るのが恥ずかしくなっていましたね。よく覚えています。
小学校の時は、もう完全に挑戦すること、人前で発表などが苦手、大嫌いになっていました。
何やっても駄目だ、という意識が常に頭にありました。
そして、笑われる。馬鹿にされる、という想いが常に恐怖としてありました。
小学校の時は、問題を解くときも、わざと解けていないふりをしていました。
解いてしまうと、先生にあてられて、前で発表、考え方の説明をさせられるからです。
もし間違っていたら・・・その状況を想像したら、本当に恐怖でしかなかったです。
そのため、人前では常に緊張していました。
間違っていないか、馬鹿なことを言っていないか・・・と。
結果、極度のあがり症になってしまいました。
逆に兄は、明るい性格でしたね。
兄は、器用だ、と親から褒められていましたから。
植え付けられたものは、簡単に直せない
このように植え付けられた意識は、しみついているのでなかなか直せません。
自然と、そういう風に考えてしまうのです。
私も、そうやって植え付けられた呪いに苦労しています。
一番最近のことですと、車の運転ですね。
車の運転
私は、大学で車の免許を取りました。
この時も、ビクビクしながらやっていました。
そして、免許取得後、親をのせて運転をしたことがあります。
この時、色々ダメだしをされました。
大慌てで言われたり、声を張り上げたり、怒ったり。
ちなみに、この時、私は、特別変なことはしていません。
その後、親や他人の運転を見る機会は幾度となくありましたが、私の運転と比べても、そこまで言われるような違いはありませんでした。
これは、親が周囲の眼を過度に気にしていたのです。
初心者マークを付けているうちの車が
「あの車どんくさい」
「はやくしろ下手くそ」
と思われると、親が思いこんでいるのです。
そのため、初心者の私が普通に運転していても、
「もっとぱっぱっと動け!」
「早くしろ!」
と急かしていたのです。
しかし、そこまでわかっていても、そういわれたことで、私の意識に不器用という”呪い”がでてきました。
「ああ、俺は不器用だから運転が下手なんだ。運転しない方がいいんだ」
と。
実際、必要以上に慎重に・・・ビクビクして運転するのは、逆に危ないですからね。
別に私の運転にそこまで問題はなく、親が周囲の眼を異常に気にしていただけだ、とわかっていても、運転、と聞くと、非常に緊張してしまい、この状態で運転するのは危険だと、私は判断しました。
私は現在免許証を持っていますが、身分証明書として持っているだけです。
上記意識が強くあり、運転は怖くてできないのです。
自分がミスするだけならいいのですが、車は、最悪人の命を奪いますからね。運転するわけにはいきません。
・・・どうしてもできないんですよね。ガチガチになります。
このせいで、運転が必要な仕事に就くことができません。
あとがき
植え付けられた意識を直すのは、大変難しいです。
頭ではわかっていても、無意識に植え付けられた考えになってしまうのです。
話しを聞いている限り、多くの親の方は、子どもへの言葉に気を付けておられ、自分の言葉が子どもの性格に影響したのではないかと心配されておられたので、そこは、ほっとしています。
「そうだよな。普通は、親は、親が子に与える影響を考え、気をつける。もし、やってしまっても反省する。うちがおかしいんだよな」
とw。
本当に、世間を、社会を知れば知るほど、我が家の異常性がわかります。
今回の問題は、よその家でもあり得そうな話ではありますが、我が家は異常です。
私は、社会人になって、自分の親が異常、毒親であることに気づきました。
(それまでも、親に不満はありましたが、それはどこの家でも同じだと思っていました)
普通は、社会に出て、親のありがたみがわかるらしいですが、私は、我が家の異常性がわかりましたw。