てるてる氷解ブログ

人生の氷河期を乗り越える  雑記ブログ

墓参りは、自分のため

先日、人生初のお墓参りに行ってきました。

母方の祖父母のお墓参りです。

私が親族で唯一、好きであった二人です。

 

私は、親と縁を切っている状態であるので、葬式に参列することはできませんでした。

亡くなったことも知らなかったので・・・。

後日、妹から、亡くなった、という連絡だけは聞いていたのですが、だからといって墓参りをすることもありませんでした。

(お墓の場所は聞いていました。現在は、妹も含めた家族全員と連絡取れないようにしていますが)

 

言い訳をすると、正直、その時は、まだ、精神的に沈んでいた時期であったこともあり、余裕がなく、お墓参り、という発想がありませんでした。

 

しかし、先日、ふと思い立ってお墓参りをすることにしました。

信仰心もなく、お墓参りに何の意味も感じていなかった自分が墓参りをしようとなぜ思ったか、を考えると・・・。

墓参りは、自分のため、といいますか、自分がしたいからするんですね。

亡くなった親しい人がそこにいる、会いに行くとすることで、自分の気持ち、精神的なものの安らぎになるのかなあ、と。

いい表現が見つからないので、身も蓋もない言い方になりますが、自己満足です。

 

親しい人に何かしてあげたい、という思い

前述したとおり、私は、お墓参りというものをこれまでしたことがありません。

お墓参りに意味も感じていませんでしたし、しようとも思いませんでした。

ご先祖といっても、自分が見たこともない、知らない人間のお墓にいっても、何も感じませんし。

 

そもそも、お墓というものを必要と思っていませんでした。

いずれ自分が死んだときも、

「お墓なんていらん、適当に捨て置いてくれればいい」

と思っています。

(家族と縁を切った、さらに独り身なので、この心配は全くの無用ですがw)

 

しかし、今回、好きであった祖父母に対しては、

「会いに、挨拶に行くか」

「墓参りぐらい行ってあげよう」

というような感覚で、行こうと思いました。

 

亡くなっているのに、会いに行く、行ってあげよう、という感覚もおかしなものです。

つまり、これは、亡くなった自分の親しい人、好きな人に対して、何かしたい、してあげたい、という思いがお墓参り、という行為に表れているのでは、と。

もしくは、亡くなってもそこにいる、会いに行ける、ということで、親しい人を失ったという精神を落ち着けるためか。

 

突然亡くなった方が、皆が皆、自分のお墓をお願いしたわけもないでしょうし、それでも、残った親しい人がお墓を建てる、というのは、やはり、故人の思い、というよりは、生きている人がしたいから、生きている自分が納得したいため、ということがあるのでしょう。

 

例えば、私の小学校からの友人は、私と同様、「お墓なんぞ知ったことか」、という考えの持ち主ですが、仮にその友人が亡くなったとしたら、私は、彼のお墓参りをするでしょう。

仮に、墓がなければ、墓を作るかもしれません。

(・・・いや、それはないか)

 

私がその友人に会いに行く、何かしたい、という思いから、お墓参りをするのです。

その友人には、笑われそうですがね。

「そこに俺はいねえよ」

って(笑)。

・・・

そんな歌あったような・・・

 

あとがき

と、お墓参りは、故人のためというより、自分のため、と思ったのでした。

 

今回、私は、自分の意志でお墓参りに行きました。

義務でいく、誰かに言われて行くお墓参りは不要、無意味かな、と思っています。

「人に言われて行かなければいけない」

というお墓参りには、意味を感じられないので。

故人を知っている人が、自らの意思で行けばいいと思うのです。

少なくとも、強制するものではないですね。